吉野熊野国立公園内にある、国の特別名勝・瀞峡。高さ20~50mほどの巨岩、奇岩が立ち並ぶ大峡谷を流れる川は、昭和40年ころに車道ができるまで人々の交通手段として利用されてきました。大正9年にプロペラ船(旅客船)が導入され、その後、昭和に入り国立公園に指定。高度経済成長期を迎えると、瀞峡は遠方からの人々などで賑わう観光地となりました。
北山川の上流から下流に向けて「奥瀞」「上瀞」「下瀞」と区分され、特に下瀞は「瀞八丁(どろはっちょう)」と呼ばれ親しまれています。
※サイト内各所に掲載しているイラストは、
東直晴さん(M37.7.11~S50.11.3)が描いたものです。
参照:『風俗図絵』
瀞・澱・泥・ドロ(トロ)・どろ(とろ)・土呂・洞……実はいろんな字が当てられる瀞峡の”瀞”は、「深い淀み」を意味します。とろり、どろりと川水が淀んだその様を見て瀞の字が当てられたのは、天保4(1833)年の頃だとか。しかし、明治に至ってもなお”瀞”の字は浸透せず、人やところによってその表記はまちまちでした。今ではすっかり定着した瀞八丁の名も、八町土呂・八丁のどろ・八丁とろ・とろ八丁、あるいは洞八丁などなど、様々に呼ばれていたようです。古い資料や周辺の地名に残るいろんな”どろ”を探してみると、まだまだ面白い発見があるかもしれません。
瀞峡は美しい景観ながら古くは訪れる人は少なく、明治17(1884)年頃に紀伊地方の外からの来訪者が現れるまでは、地元の人にだけ愛される場所でした。1000年以上も続き、室町時代には「蟻の熊野詣」と称されるほど人を集めた熊野信仰の地からさほど遠くないことを考えると、訪れる人が少なかったのは一重にそのアクセスのし難さが理由でしょう。大正9(1920)年にプロペラ船が、昭和40(1965)年にウォータージェット船が就航すると徐々にアクセスは改善し、観光客が増えていきました。昭和2(1927)年に日本二十五勝に、昭和11(1936)年に吉野熊野国立公園の一部として指定されたことも相まって、今の観光地としての瀞峡が出来上がっていったのです。
周辺地域の人々の暮らしは、古くから瀞峡を含む北山川に深く根ざしていました。海から深く入った森林で伐採された材木は、「団平船」と呼ばれる帆船や、材木を組んで作られる筏の形で北山川を下り、港へと運ばれたのです。瀞ホテルの起こりは、こうした筏師たちのための宿でした。大正の頃までは三尺(約90cm)にもおよぶ巨大な鯉が獲れたという話が残り、ウグイやアユ、アマゴなどの川魚も大きく、数も多かったといいます。こうした川の幸と、周囲を囲む深い山々の幸が人々の暮らしを支えました。林業の衰退と観光地としての発展によって川はその役割を運搬から娯楽にかえ、今も地域の人々の生活の中心となっています。